或る日の事九月四日「心なんてあやふやな物を信じているようではね、人間だめなんだよ。そんなものを信じているようでは、人間もあやふやになってしまう。君。全ては脳、この脳が考えているのだよ。何故そのようなことも分からずに、今までいられたのか。」 偏屈な老人はそれだけ言うと、あのしかめっ面で睨んだのだ。 この三日間は、まったく気がやすまなった。かの老人ときたら、全く自説を正当で、この世に他に正しいことがないように言うのだから、困ったものだ。 僕がどんなに「心とは決してあやふやなものではない。ああ、あの鳥たちって、すべとを本能で縛り付けられた行動をするわけではないのが、あれはまさに心があるからだ。心が無かったら、求愛なんてせずに、すぐメスに群がるようなことさえするに決まっているんだ。ああ、脳とは実に野蛮なものであるが、それを心が補ってくれているのだ。」と言ったって、全く恐ろしく変なものを見るような目でこちらを見、もっともらしく「詭弁だね。全くもって不愉快だよ。心なんぞは全て脳が作り出した虚像だよ。まだ医学が発展していない時代のね。若い者がそのようなことでどうする。」なんてことを言うのだ。 きっと彼には感動が足りないにちがいない。あくせくと一日を過ごしているうちに、方々へ感動を置いて来たに違いない。さもなければ道理に合わないだろう。すばらしい夕日や、鳥のさえずり、雄大な自然の何かに触れたとき、一度は心が動かされるものだ。それなのに、あそこまで心をないと言うなんて。 話したっけか、話した気がするな。いや、たとえ一度話していたことだとしても用心に書いておこう。もはや痴呆でどうしようもなくなった老婆がね、今までに見たことも無いような―そうそう、彼女は都会の人だからね―満天の星を見、河のせせらぎを感じ、花を眺めたんだ。彼女は養生に来ていたこの町でね。そしたらどうなったと思う。なんと、痴呆が直ったのだよ。あれはきっと、自然のせいだ。すばらしい自然を見たことにより、心が動かされ、それが脳に伝わったに違いが無いんだ。だから、かの老人にも感動を知る心があれば、心の存在を認めるんだと思うんだがね。 家の前にある小さな花を一日に一回めでるだけで、僕なんかは、もう、ただ嗚呼と言ってしまいそうになるものなんだがね。 九月十日 またかの老人と話す機会が遭ったよ。相変わらずの調子でいたね。彼は僕になんていったと思う、「やあ、幻想と現実とが入れ違っている者」なんて、失礼なことを言うのだよ。彼には詩を吟じることさえも馬鹿らしく見えるらしく、僕の持っていた詩集にまでけちをつけ始めた。「なんて心が狭いことをいうんだ」と言ったら、またあの心なんかは存在しないと言う自説を永遠聞かされてしまった。 もはや僕には一体どうすればいいのか見当もつかないよ。 ジャンル別一覧
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